功利主義者の困り事: 事実に基づく意思決定
ある人はこういった: 「近親相姦がいけないと言う(価値判断)のに、近交弱勢なんて事実の問題はどうでもいい」 (はてなブックマークだったと思うが、発見できず)
功利主義者から見ると、この考えは完全に間違っているように見える。
行為を結果から評価するならば、近親相姦について近交弱勢が重要でないということはないだろう (いや、避妊するなら別だけど)。 (結果が功利主義的に悪いからといって法律で禁じるべきかはまた別の議論が必要かもしれない。もし近親相姦のコストをとりたてて法律で罰しなくても行為者自身が負っているなら、その行為者が近親相姦するのはベネフィットが上回る場合だけになるので、わざわざ法律で罰する必要はない)
ところが、そうでもないという考えもできる。
メタ功利主義者は次のように言う:
近親相姦に強い考えを持っているために、動機づけられた推論によって近交弱勢についての事実を認識しそこなう人がいるかもしれない。つまり都合の悪い結論があるから、そもそも事実認識自体を受け入れられない。 そんなとき、「事実に基づく意思決定なんてしなくてもいいんだ、結果がどうあれ、行為はその意図や内在的なあり方によって評価するべきだよ。あなたの大事な価値判断は変えなくていいんだ」となると、安心して、事実を認識できるようになるかもしれない。
事実を認識できても、それを意思決定に使えないなら功利主義に役に立たないって?
まあ、それもあるが、真理の認識はそれ自体として良いことであるとここでは仮定して(もしくは、別のあまり強い感情を持たないような意思決定にはその知識を利用可能と考えて)、いったん無視しよう。
近親相姦をXとかに置き換えて中国語の部屋的なところに閉じ込められた人に証拠を転送して事実認識をさせるべきかもしれない。
↑これは実際そんな感じのことだ
ようは、政治的帰結と事実を切り離して議論したいが、それを人工的に切り離すためのフィクションとして非帰結主義的な道徳を受け入れることが結果的に役立つ。(というのをメタ帰結主義と言った)
いや、正確に言うと、義務論でも歴史などの事実が問題になることがあり、そこで動機づけられた推論をする余地があるから、非帰結主義的な道徳を受け入れたところで動機づけられた推論から逃れられるわけではない
そもそも根拠を求めることの問題かもしれない (そもそも推論がいらないなら、動機づけられた推論が生じる余地もない)
私自身、ゲームと暴力の関係について読んでいた時の経験がある。
ゲームが暴力的な感情に繋がっているという研究で、色々と疑いながら読んでいたが、同じ本で暴力的な感情につながっているからといってじっさいの犯罪につながるわけではない、ゲームの発売と犯罪の増加時期は一致しない、という話もあったので、前の話も疑う気持ちがだいぶ減った。
(「これは複雑なことを言っているから調べてるっぽいぞ、正しそう」というヒューリスティックを使っているのとも関係する。)
しかし、その道徳的・政策的含みがどうかということではなく、純粋にサンプルサイズとか実験の手続きを見て疑っていくべきだという考えの方が合理的ではある(?)。
最初から「犯罪を引き起こそうと、それは結果の話であって、自由は譲れない」という帰結主義じゃない人だったほうが、事実をまっさらな気持ちで検討することができたかもしれない。
逆に、政策に影響し、そのことが全員に認識されているだろうということを自分も知っていると、たとえば最初からゲームを規制したい人が犯罪との関係を議論しているんじゃないかというように、他の人が動機づけられた推論をしているのではないかと疑って、自分もサンプルサイズとかではなく政策的含みから考えなきゃいけなくなるということも。
関連する話として、決定権を持つか否かというのと良い決定をするだろうかというのは別なのだが、良い決定をすると思われていることと決定権が結びつく場合がある。
"実験結果とそれを説明する理論だけでなく社会的インプリケーションについても論じる"という本はその知的内容について差し引くことはある程度妥当だ。
しかし社会的インプリケーションについて論じるのは悪いか? そんなことはない、考えのインプリケーションを考えるのはいいことだ
でも:
Norman R. F. Maier said: “Do not propose solutions until the problem has been discussed as thoroughly as possible without suggesting any."
"Cognitive Biases Potentially Affecting Judgment of Global Risks", p.11
帰結主義によって特定の権利や義務を神聖視するのをやめさせたところで、今度は特定の事実判断を神聖視し、今度は事実判断について今までの道徳的論争と似たような代理戦争をはじめる可能性がある
逃げ場を残すこと
「事実に基づく意思決定なんてしなくてもいいんだ、結果がどうあれ、行為はその意図や内在的なあり方によって評価するべきだよ。あなたの大事な価値判断は変えなくていいんだ」、逃げ場を残しておいたほうが説得しやすいというやつだ
たとえば「○○を信じる人にはこのような人が多い」というような発見でも、別に人間が常に信用できるなら知っておくことによって悪いことはないし、知っていることは実際何かしら有益だろうけど、内容より信じられることがどういう結果を持つかが気になってしまうということはある (対人論証に使われないかどうかみたいな) Appeal to consequence